秋田に訪れた詩人


石垣りん氏/小坂太郎


 私の第六詩集『北の午前』(一九八○)に対し「私の青春期とも重なる部分もあり、懐しい共鳴共感を持つことができました。」という感想が寄せられてい た。一九八三年一○月、雄勝郡国語教育研究会で石垣氏を講師によぶ段取りが進められていたが、ある深夜電話がきた。とても国語の先生方に物を教えるような ことはできないという。自分の創った詩について話してほしいと粘り、説得した。
 同年一一月七日、含羞の詩人は飛行機で来秋した。「鳥海山と雄物川がすばらしい。緑がほんとに美しい」「私来るとき友人に秋田は美人ぞろいだと知らされ、道行く人会う人の顔ばかり見つめていて、自分が見られていることにちっとも気づかなかった」と言った。
 九日、湯沢市の雄勝教育会館で「わが詩・わが人生」と題する講演会が開かれた。ほぼ年代順に自作詩を朗読し、その作品の成立の背景やモチーフなどについ て詩るそれは、詩によって語らしめる人生や社会や文字への思い、であった。一貫して職業女性(独身)であり続けた氏の作品には、生活上の履歴、時代の背 景、生活者としての生身の姿(生きざま)が鮮やかに浮かびってくる。
 中学三年の国語教科書(光村版)に、氏の「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」が、詩教材として採択されていた。日常の生活に根ざしたその詩は「日本女 性の社会意識がこのように豊かな言葉で歌われた事がいままであっただろうか」と詩人小野十三郎が激賞した作品である。同じく清岡卓行は「石垣りんの残酷明 澄な視力」と評した。「私は詩を頭で書くのではなく、手や足で、体で書いてきたように思う」「生きて、働いて物を書いてきた」という庶民性が聴衆の親近感 をよび、底辺の悲しみを共有できる深いヒューマニティと独特のユーモアが強い感銘をあたえた。
 詩集『表札など』でH氏賞。『石垣りん詩集』で田村俊子賞。日本現代詩人会会員。(会報7号、1993.9)


詩人石垣りんさんを偲ぶ
小坂太郎

 石垣りんさんが昨年(二〇〇四年)十二月二十六日に亡くなられた。
 彼女は、現代詩人のなかでも最も庶民的な女性詩人といわれており、国語教科書(光村版)の「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」という詩教材の作者としても知られていた。
「(略)それらはなつかしい器物の前で/お芋や、肉を料理するように/深い思いをこめて/政治や経済や文学も勉強しよう//それはおごりや栄達のためでなく/全部が/人間のために供せられるように/全部が愛情の対象あって励むように」
 と結ばれるその詩は「日常の生活に根ざした題材で、日本女性の社会意識がこのように豊かな言葉で歌われたことが、今まであっただろうか」と、詩人小野十三郎(故人)に激賞された作品である。
 りんさんが教科書会社の田中智(さとる)氏(秋田市)の斡旋によって、雄勝国語研究会の講師として、湯沢市へ来られたのは、昭和五十八年十一月八日のことである。
 事はすんなりとは運ばなかった。私はこの高名な詩人が、かくも謙譲(けんじょう)と含羞(がんしゅう)の人であろうとは、想像していなかった。
 田中氏によれば、大変な人見知りで演説嫌いらしい。初め、秋田に講演に行ってくれませんか、と交渉したとき、「私行ったことがない」と答えたそうである。だから行ってみたいという承諾の意思表示と受け取り、田中氏は段取りを進めたようであった。
 その頃のある日の夜遅く、りんさんから電話が来た。会ったことはないが、詩集やエッセイ集を送ったり送られたり、また、文通もしていたので、心易く会話ができたように記憶している。
 とても国語の先生方に物を教えるようなことはできないし、気おくれがするという。相当な講演嫌いらしい。
 自分の創った詩について話して欲しい、教科書に載った作品でもいい、それで十分だからと粘り説得した。
 ようやく承諾を得て、講演会を開くことになり、八日に田中氏の自動車で湯沢市に訪れた。ゆったりと鉄道で来たかったらしいが、飛行機で秋田空港に降り立った。
 そして翌九日、当時木の香りも新しかった明治風建築の雄勝教育会館の二階講堂で「わが詩・わが人生」と題するりんさんの講演会が行われた。
 ほぼ年代順に自作を朗読し、その作品の背景やモチーフなどについて語るそれは、詩によって誇らしめる人生や文学への思い、といってよかった。
 一貫して生活者(職業婦人)であり続けたりんさんの詩には、生活上の履歴というものが、作品の背景に大きな意味を持ってくる。その時代、その作品を書いた作者の生身の姿=生きざまが、鮮やかに浮かび上がってくるのである。
 「私は人前で自分の書いたものを読むことは、抵抗がない。小学校時代、つづり方を書かされ、先生に褒められ、とても楽しかった。そして人前で自分のもの を読むという経験をさせてもらった。現在でもそれは生きている。いまでも先生に感謝している。今の教育にも私はそれを望みたい」
 と語った。
 また「私は詩を頭で書くのではなく、手や足で書いてきたように思う。体で書いてきたように思う。生きて、働いて、そこから物を書いていきたいと思う」
 とも語った。
 四十年余の職場(銀行)での体験が、働く女性として行き抜く力強いリアリズムの眼を磨きあげ、人間存在のやさしさを認識できる、ヒューマニズムを培ってきたのではないか、と私は思った。あの独特な明るいユーモアとなって滲(にじ)んでくる作品と、ともに。
 私は優しくゆったりとした口調の話を聞きながら、折りしも窓から降りそそぐ秋の午後の日ざしかち、詩人清岡卓行が評した「石垣りんの残酷明澄な視力」ということばを思っていた。この秋の日のように透明に澄んだ眼力が、鋭く生活の本質を見抜いているのである。
 つねに人間らしく生きたいという願いに根ざした人間観が、温かく細やかに伝わってくる講演であった。
 湯沢市雄勝郡の教師や主婦からなる二百ばかりの聴衆は、食い入るようにりんさんの話に引きこまれていた。あの詩のように、易しい詩語(ことば)で深い思想(こころ)を表現する言葉に聞きいっていた。
 りんさんは生涯独身で過ごした。一生自力で働き通し、その体験から優れた詩を生み出した。あの日、あの時の彼女の姿が私の中で生きている。明るく澄んだ眼が鮮やかに浮かんでくる。ああ、わが内なる永遠の童女よ。(2005年1月13日―合掌)
inserted by FC2 system