秋田県の詩誌Ⅱ

「秋田県の詩誌 パートⅡ」では、すでに終刊(?)となった同人誌を紹介していきます。



「処女地帯」 吉田 朗

 『読本・押切順三』は、押切さんの一周忌である二○○○年七月三日を期して刊行された。「処女地帯」(第二期)創刊以来の生き残り(?)の同人、藤田励 治を代表とする刊行会の約九カ月の運動が実ったものである。藤田のほか、「処女地帯」の同人から選ばれた小坂太郎、小番績、品川清美、田口恭雄に吉田が加 わり、現代詩人協会から米屋猛に応援を頼んで編集委を構成した。基金、執筆者など、「押切順三を敬愛する一〇○名の人々」(『読本』オビ)の勝利ともいう ベき出版だったと思う。この出版を記念し、押切さんを「偲ぶ集い」が開かれたが、遺影への献花、パーティのほか、詩展や遺作展、フォーラムなどのイベント もあり、会場は一日中賑わったのだった。
 「処女地帯」は、戦前の稲村容作や北本哲三らの詩活動を、その最大の盟友だった押切順三が引き継ぎ、一九五○年、北方自由詩人集団『処女地帯」を発足、牽引することとなったものである。
 稲村の書いた「ぺんぺん草はなぜ泣いたか」は、時代に対する批評精神の横溢した知的な散文詩だったし、北本の「勲章」は、軍部優先に対する農民の怒りを ぶちあけた反戦詩のさきがけをなすものだった。権力は、稲村を再召集して南方の激戦地に放りやり(戦死)、北本は検挙し数十日の留置場生活を強制した。
 戦後の「処女地帯」は、その歴史と伝統を受け継ぎながらも「あんたんと暮れる北国の空に、集団に、文化の流域に、一つの水滴となる詩を」(一号、一九五 ○年)と主張した。押切的ユートピアン精神と抵抗と農民愛を軸に発足したのだった。中国山西省の戦線から復員した押切の第一作「山上部落」は、この創刊号 に載っている。「山上部落」は押切の代表作の地位から揺るがなかった。私どもは競うように「戦場詩」を書いたのだったが、及ぶ者はいなかった。
 押切は十三号(五二年)に「稗ぬき」を発表した。それが私どもが「農民詩」に向かい合うきっかけとなり、同人や投稿者たちのすぐれた農民詩が毎号の「処女地帯」に載るようになった。
 死んだ兵士のうらみつらみを晴らすことも詩の使命の一つではあるが、現実の生活の中から共感のうたを探さなければならなかった。押切は「詩は解放の文学 だ。人間解放の意思が詩創造の力でないか」と説く。私どもは人間もろもろの声なき声に耳傾け、語らなければならなかった。
 一号(五〇年)から十五号(五三年)までの中で、印象に残る作品を発表した執筆者を発表順に挙げれば次の通りである。
 北本、押切、藤田を中心に男鹿耕二、石川清雅、小松暮夫、高橋兼吉、今林杜志緒、畠山秀、秋本俊郎、畠山義郎、山口邦三、児玉孝雄、片岡太一、島田柳之 助、桜田洋子、中川利三郎、吉田、佐々木正四郎、島田雪夫、村上昌幸、田村英一、草階俊雄、沖奎之助、小野敏郎、大野伸平、小谷芙美夫、阿那徹、芙蓉晶、 小坂太郎、鈴木敏行、真砂四郎、後藤敬作。
以上が初期の同人及び執筆者であった。来る者、去る者、消長はあったが、村長たる押切は常に泰然、「処女地帯」を自由に耕すことを見つめ、その人間を愛してやまなかった。
 十六号(五三年)から三十号(五九年)までの道程で、力量のある若い書き手が加わり活気がみなぎった。「処女地帯」の全盛時代といってもよかった。ただし、このころになると同人はかなり振るい落ち、集団の骨格が固まった感があった。
 うしやまあつお、後藤敬作、須藤哲平、須藤春代、吉田耕一、品川清美、ぬめひろし、仲野谷清、菅ゆう、阿樹哲共、斎藤隆介、武田保夫、なみ山広、高橋アイ、のぎかおる、ほんまよしみ、安部鉄雄、庄司善徳、田口恭雄、小番績。
 押切は、「ささやかな凡庸な生活を愛し、自由と平和が好き」といった。自由と平和の嫌いな人間がいる筈はない。そのためには考え方の少しばかりの違いは あっても、交流や連繁ができないことはない。「生きる、生きたいの意思と姿勢が詩を生みだす」のだから行動を起こさなければならなかった。規定はなくと も、「北方自由詩人集団」は行動する詩集団だったのである。押切の奥底には「処女地帯」を「思想集団」に、との思いがあったのだと思う。
 とすれば、朝鮮戦争も内灘問題も、ローゼンバーグ事件も看過できないことだった。「交流と連緊」のために同人は「行動」しなければならなかった。私のよ うな有象無象の目から見るとそれらはすベて詩行動だったものである。それこそが「『処女地帯』的」といえるのではなかったか。
 五三年「北方の種子」の刊行を手始めに、「処女地帯」は行動を開始した。農民詩が作家・伊藤永之介の目にとまる。新たに公募したアンソロジー「農民詩 集」が五五年に新評論社から出版される。五六年第一回啄木祭を秋田市で開催。同年「メーデー詩集」をメーデー会場で配布。五七年第二回啄木祭。同年平和詩 展。五九年警職法反対闘争に参加、提灯デモを行う。同年街頭平和詩展。六二年第一回県多喜二祭。六五年詩人協会詩画展。同年原潜佐世保寄港反対の運動。六 六年秋田詩の教室開催(毎月連続二十数回)。六七年平和ののれん展。六九年稲村容作詩碑建立。七三年竹内瑛二郎詩碑建立。七四年パブロ・ネルーダを追悼す る集会。七五年金芝河の投獄に抗議する夕ベ。八八年北本哲三詩碑建立、などなど。
 押切の「詩は抵抗運動という運動の一環であることを自覚しない限り、自壊と堕落の途をたどる」ということと合致したかどうかわからない。しかし、ひたすら「連帯」と「友好」を求めて押切も同人も(有志のときもあった)共に行動したことは確かであった。
 七四年、「処女地帯」は六十号で「その耕して来たもの」を特集して、ひとまず第二期を総轄した。それから第三期へ移行したのだった。
 押切さんを実行委員に加えた第一回秋田県多喜二祭(六二年)については前述したが、その第三六回は、去る二月一八日、文芸評論家松澤信祐文教大教授を講 師に招いて行われ、小林多喜二の文学と生き方についての熱っぽい講演が百人を超える参加者に深い感銘を与えた。「処女地帯」はむかしの沃野を失ったが、い まも多喜二祭の実行団体として細々とながら「文化」を模索し命脈を保っているのである。
 (この文は、「秋田文学」12号〈2001.4〉の「特集/証言 秋田戦後同人誌史〈下〉」を、執筆者の許可を得て転載しました。)

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