秋田県の詩誌

秋田県内で発行されている詩誌を紹介していきます。
ARS・海図・汎視群・密造者・舫



●ARS

 ARSは誌名を初め詩として、昭和23年4月10日に創刊、その後目まぐるしく名称変更を行なひ、ARS(技術)と安定したのは昭和51年7月刊の第一六九号からである。
 この間、昭和30年までは謄写版による自家製作で月3回刊・2回刊・月刊・隔月刊、業者依託後に大たい季刊と落着いた。
 自家製作時代に時雨美千留が担当して東京から発行した若干号は、その美術品のやうな出来栄えが印象に残る。
 ARSの原初誌が発行された時期は、敗戦後の全国的なサークル活動隆盛期にあたつてをり、片々たる詩誌でさへその拠点となりやすい状況にあつたやうである。また、お互ひが集まり且つ集めやすい年齢に相当してゐたことなど、流動的な性格が長く尾を曳いてゐた。
 しかし、これらの漠然としたサークル性からの脱却は容易に実現するものではなく、それだけに誌面の決定的刷新が求められた。
 ARSがVOU系モダニズムへと誌風を転換させたのは昭和52年。ただ、北園克衛が別誌で行なつてゐた俳句活動を一本化し、誌面を伝統的表記でまとめたのは独自の判断による。
 一つは自由詩と日本的最短定型詩との共存をはかつてのことであり、他は整合性がより高い表記を多少民族主義的立場から護持しようとしてのことである。
 ARSは綜合芸術家北園克衛の一面にしか学ベないでゐるが、写真・線画と文字言語との双方に関与する姿勢を同人の過半数が示せてはゐる。
そして、日々の新たな発見は、思想・感情のその先に突入できなくはない無心の覚悟の境位が、物質としての文字言語の自立的連結を招くといふことになるだらう。
 同人は、繊細な線画とイメージの美しい構成詩の時雨美千留(武蔵野市)詩についての詩を追究する伊藤勲(町田市)が索引力を示し、写真の澤田信一〈東京 都北区)筆太で東洋的な味はひの抽象画が魅力を増してきた本県出身の鈴木秀雄(山形市)ひたすらに精進する寺田和子(秋田市)せつかくの才能を休筆中の柴 田敬史(大曲市)がをり、草階はARSの機械的刊行に専念してゐる。(草階俊雄、歴史的仮名遣ひ・原文のまま)(会報10号 1994.11)


●海図

 「海図」は、一九九○年三月、長い病の末に亡くなられた竹内美代乃先生が、県内の女性に呼びかけて創刊されたもので、以来二十一年間、未だに何故か?女 性だけの同人を通している。誌名の「海図」は、美代乃先生のご主人であり、実質「海図」のお世話をして下さった、教育者であり詩人であった瑛二郎先生が、 傾倒されていた詩人生田春月の、追悼詩集の題名からとられたと聞いている。
 「同人九人。がっちり肩を組んで、詩誌『海図』出発へ漕ぎつけた。主婦であり、母親であり、その上職業を持ち、一人何役かの役目を果たしながら、生活の 士壌から詩にかける愛情で結び合って進みたい。」新聞にも紹介された創刊号あとがきの一部である。かくして、九人の乗った小さな船が波高い人生航路へ船出 したのが、二十一年前の「海図」の出発であった。
 一九八八年十二月発行の四十四号から、「海図」は第二の航海に出発した。美代乃先生の長期療養、実質の操舵者瑛二郎先生の御他界。一時呆然となす術なく 波にもまれた同人であったが、両先生のご意志を受け継いで海図の灯を守ろう、という固い決意を竹内一朔先生にお認め頂きご支援を得ての再出発となった。そ の際、大先輩の同人坂本梅子さんがお怪我の為に不参加となられたことは残念の極みであった。然し今も陰ながらの励ましに勇気付けられている。一九九一年四 月には五十号記念特集を編み、一九九三年十一月には創刊二十周年の記念号を出した。一九九四年八月(今年)、五十八号の発行を終えたが、九人だった同人は 十六人と大幅に増えた。”門を叩いて下さる方は拒まず、お互いに誌上で研讃を"が「海図」の姿勢である。他誌のような合評会は難かしいが、師を招いての勉 強会を開くことを相談中である。何故女性だけなのか、と問われるが、一つ位女性だけのグループがあってもいいと思う、というのが本音。然し、「女性詩」と いうジャンルは無い、といわれる小坂太郎先生のお言葉には耳を傾けたい。
ともあれ「海図」は、創刊者竹内先生が几帳面に守られてきた、年三回の発行。全同人全員作品、を守り、お互いに励まし合い、個を尊重しながら仲間の絆を大 切に、「ぺンの持てる限り詩を書こう」、を合言葉に生きてゆきたいと考えている。(木内むめ子)(会報10号 1994.11)


●汎視群

 創刊が一九七八年一月三十一日なので、今年でちょうど二十年目になる。北東北の秋田という風土を土台として、農業に関わる者の視点と、全く町場の生活者としての視点とのぶつかり合いの中から、何かが生まれるのではないかというのが、創刊時の思いだった。
 創刊号の巻頭言に、「僕らは今、そして、これからも活動し続けなければいけない。その方法はなんであれ、たとえ、まちがいを内包していても、動き出すこ とが必要だ」と、同人平均年齢二十六歳という若さを反映した決意が明瞭に記されている。創刊時の同人は照内きよみ、柏広子、無宇、林強、成田豊人の四人で あったが、現在は林強が抜けた後、須合隆夫、若木由紀夫の二人が加わり六人になっている。
 次に同人の作品の特徴を簡単に記したい。照内きよみは農家に生まれたこともあり、特に風土とそこに生きる人間にこだわりを持っていて、重厚な作品が多 い。ここしばらく沈黙しているのが残念。柏広子はただ一人県外(埼玉県)に在住している。主婦としての視線から日常を捉え、繊細でありながら骨太の作品を コンスタントに書いている。無宇は「ことばあそび」に才能を発揮。ひらがなのみの詩を書き続け、日本の詩人にめずらしく押韻にも配慮して来た。須合隆夫は 少し前に大病を患ったが創作意欲は衰えることがない。病気になる以前は、独特な意識の流れによる改行が特徴の作品を多く書いた。現在は日常出会う人々や自 然に視点が置かれた、優しさに溢れる作品を書いている。紀行文も毎回書いていて楽しい。若木由紀夫はまだ掲載作品は少ないが、エッセイや評論に力量を発揮 している。成田豊人は日常生活をテーマとし、個々の生と性との関わりを継続して書いている。
現在はほぼ年一回の発行だが、少なくとも年二回の発行が望まれる。(成田豊人)(会報17号 1998.3)

(*2005年3月、事務局注。同人の自死を契機として「汎視群」は30号で休刊となった。しかし、成田氏らは「komayumi]を2月15日、創刊した。


●密造者

 本誌は一九六五年八月に創刊された。当時の同人は十六名。三十年たった現在、十四名でそんなに変らない。まもなく四十三集が出る。初代編集者、奥山潤が 療養の為、五年ほど休刊したのを差し引くと、一年に二冊ほどの刊行となり、随分のんびりした歩みである。だが死んだふりして、不意に不死鳥の如く天空に飛 び翔つのは快哉である。
 ところで、「密造酒発行人」などと畠山義郎が新聞に紹介されることがある。人にも「密造酒ですか」と云われたりして苦笑するが、酒でも者でも要するに、 反権力、反中央指向の点は変らぬ。詩人はもともと、どなたの指図も受けないものだ。同人はみんな、その気質があり、深夜ひとり、どぶろくの上澄みにトーゼ ンとする、態である。
 奥山潤が第一集の編集覚書に「詩誌というのは普遍性がなく臭みがある。そうならないために白鳥、永井、野添を加えた。内部からこっぴどい批判が飛び出す期待ほど、面白いことはない・・・」と書いている。この編集方針はいまだに貫かれている。
 つまり詩人ばかりでなく、評論、エッセイの多彩な書き手が、自在な筆力を振うことから、誌上に社会性が出てくる。詩からはみ出たもの、また「内部から こっぴどい批判云々」については、第九集から始めた合評会記録が、それのサイたるものである。仲間ボメはせず、歯にコロモを着せず批評する。えんえんと続 いているのは、やはり同人のふところの深さであろう。
だが実は正直な所、合評会に出席できない在京同人がヒハンされて「欠席裁判はひどいぞ」と北の方に向い切歯扼腕することもあるらしい。だから関東地区で合評会を開こうとしたが、すぐ飲み会となり、一回も成功しなかった。
 小誌は誰にも広く誌面を開放する。寄稿者は同人と同じ扱いである。また「現代詩時評」「詩集論評」などでサロン風の同人詩誌から脱却を意図する。本県では頁数のみならず内容でも読み応えあると云われる所以だ。
この春始めて本誌から詩集を出した。『金いろの紐』である。有名出版社でなく、あえて地方の同人詩誌を出版元としたのは、やはり、“密造者的反骨”だろう。これからもわが同人は独立独歩、“和して同ぜず”だ。(亀谷健樹)(会報14号 1996.7)


●舫

 一昨年亡くなられた故沢木隆子の呼びかけによって舫が創刊されたが、そのときの同人は七人であった。たとえ、初めは何人でもいいから詩誌を出そう、そし て出発しよう、ということで沢木先生の意中の人たちの賛同を得、詩誌名も「舫」として発刊したのが昭和四十七年(一九七二年)十一月であった。今はもう故 人となられた柴田正夫、粟津祐逸のほか、米屋猛、沢木先生の娘さんの近藤彰、成田隆平、奈良あき(男鹿市住)、奈良は途中から舫を去っていった。
 二号からは泉谷連子、柳原真砂夫が参加したが、粟津は三号で、柳原は八号(一九七六年)を最後に故人となってしまった。この後、佐々木イネや、夏井和子(男鹿市住)らが加わってこの時点で舫の同人は創刊から二年経って二人多くなった。
 九号からは伊藤美智子が十一号からは藤本豊隆、小松春美が、それからは満ち潮の如くに、斉藤肇、仲村キミ、木内むめ子、さらに、石川悟朗、山本かつたか などが参加した。沢木先生の妹、穂積生萩(さきがけ文字賞受賞・歌人)は十四号から二十一号まで同人であった(一九八O~一九八六年)。最も新しいところ では、近藤彰の長男、清兄が去年の秋から参加。
舫が創刊してから二十二年余で、現在の同人は創刊時のちょうど倍の十四人である。
 出発時から今も籍を置いているのは、米屋、近藤、成田とこの三人である。こうみてくると、時代という流れがいまさらのように思い返されてくる。ことに、まだこれからというときに、柴田正夫や柳原真砂夫、それに粟津祐逸などの死が惜しまれる。
 舫には、今もそうだが創刊時から堅苦しいところはひとつもない。たぶん沢木隆子という人徳によるものと思うが、たとえば、同人会でもそこはまるで何か別の会の集まりと錯覚するほど、いつも和やかで明るいのである。
舫は現在、三十四号だが、五月には三十五号の発刊が見られるだろう。年二回はもしかしたら少ないかもしれないが、背伸びだけは長続きしないと思うからその へんのところも考えねばならない。もともと、のんびりしている編集だがこれも舫だからできるのである。(成田隆平)(会報11号 1995.3)


*注 2001年現在では、同人等の変更があるかもしれませんが、会報に掲載されたものを再録しました。ご了承下さい。現在の号数については、「秋田の詩界ニュース」を参照して下さい。

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